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葛飾北斎]
k_jash_17; Katsushika Hokusai,
葛飾北斎, complete set, セット
葛飾 北斎(かつしか ほくさい、宝暦10年9月23日(1760年10月31日) - 嘉永2年4月18日(1849年5月10日))は、江戸時代の浮世絵師である。森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表し、版画の他、肉筆画にも傑出した。さらに読み本挿絵芸術に新機軸を出したこと、北斎漫画をはじめ絵本を多数発表して毛筆による形態描出に敏腕を奮い、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であった。葛飾派の祖となり、ゴッホなどフランス印象派にも影響を与えた。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。
その功績は海外で特に評価が高く、1999年雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に日本人でただ一人、ランクインした。
目次
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1 生涯
1.1 30回の改号と93回の転居
1.2 挿絵画家の一面
1.3 吉良家剣客の子孫?
2 主要作品
3 関連項目
4 外部リンク
生涯
1760年 江戸本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれた。幼名は時太郎。後に鉄蔵。
1764年 幕府用達鏡師であった中島伊勢の養子となったが後に実子に家督を譲り家を出る。その後貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ね、実家へ戻る。
1778年 勝川春章の門に入った。狩野派や中国画、西洋画などあらゆる画法を学び、風景画を多く手がけた。この頃は「春朗」という号だった。「春朗」は春章と春章の別号である旭朗井(きょくろうせい)からそれぞれ1字をとったもの。
1779年 勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である春好との不仲とも春章に隠れ狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。
1795年 「北斎宗理」の号を用いる。
1798年 「宗理」の号を門人宗二に譲り、自らは「葛飾辰政」を用いる。
1805年 「葛飾北斎」の号を用いる。
1810年 「戴斗」の号を用いる。
1814年 北斎漫画の初編を発刊。
1820年 「為一」の号を用いる。富嶽三十六景は、1823年に開版し、1831年に完結する。
1834年 「画狂老人」、「卍」の号を用いる。富嶽百景を手がける。
1844年 信州小布施に旅行する。1848年まで滞在。
1849年5月10日、浅草聖天町遍照院境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句「人魂で 行く気散じや 夏野原」
30回の改号と93回の転居
彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号は「春朗」、「宗理」、「葛飾北斎」、「画狂人」、「戴斗」、「為一」、「卍」など。この改号の多さについては、弟子に号を譲り収入としていたからとの説もある。
また、93回に上るとされる引越しの多さも有名である。これは彼が絵を書くことのみに集中し、部屋が荒れれば(あるいは汚れれば)引っ越していたからである。
挿絵画家の一面
浮世絵以外にもいわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴と共にその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度だった挿絵の評価を格段に引き上げたと人物と言われている。一時期馬琴宅に居候していたことがある。
吉良家剣客の子孫?
飯島虚心『葛飾北斎伝』によれば、元禄赤穂事件(忠臣蔵)で吉良方のヒーローとして扱われている剣客の小林平八郎には、娘が一人いて、その娘が後世、鏡師中島伊勢に嫁いでいて、その子が葛飾北斎なのだという。この噂の出所はどうやら葛飾北斎自身らしい。北斎はこのことをやたら自慢して歩いていたといわれる。真偽のほどはかなり怪しい。
主要作品
富嶽三十六景