商品コード: O-gaul-005 - 切手シャルル・ド・ゴール Charles De Gaulle 完全セット/様々な大ぞろいのセットシート ー 小売価格 ¥900
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[the Beauty of France
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o_gaul_005; Charles De Gaulle,
シャルル・ド・ゴール, complete set, セット
アルジェリア独立を承認
1958年5月、アルジェリアのフランス植民者が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、軍部と結託して本国政府に反旗を翻した。この緊急事態に、政府は、軍部を抑えることのできる人物としてド・ゴールに出馬を要請し、彼を首相に任命した。彼は、これを念願実現の好機として、直ちに大統領に強権を与え、議会の力を抑制する新憲法を立案し、これを国民投票に付した。同年9月に行われた国民投票で圧倒的な賛成を得て新憲法が成立し、第5共和政が成立し、ド・ゴールは初代大統領に就任した。彼は、以後1969年に退陣するまでの11年間、独裁的とも言われた強権をもって、フランスの内外政策を強力に推進したのである。
しかしド・ゴールは民族自決の動きを理解しており、アルジェリアの独立は必至と判断していた(はじめは完全独立ではなく緩やかな連邦制も模索したが考え直した、と後に回想している)。結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼(OAS)のテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した(→「ジャッカルの日」)。
独自路線
また、東西両陣営の間で冷戦が続く中、彼はアメリカとソ連のどちらかの陣営とは別の「第三の極」を作るべきだという意識(ド・ゴールの「第三の極」はフランスが中心である)を持っていた。
そこで西ドイツとは和解・協力を進め、反面アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)と国際連合に批判的な態度を取り、NATOの本部をフランスから追い出し脱退してしまう。それに並行して国連分担金の支払いを停止した他、アメリカと近い立場を取るイギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟拒否を表明した。
また、フランス独自の核兵器の開発を推進し、1960年2月にはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功しアメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となった。1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権である中華人民共和国を承認した。(イギリスは香港を抱えていたため、例外的に建国直後に中華人民共和国を承認していた)
これらの独自路線を取る政策はフランス国民の愛国心と誇りを高めたが、一方で、独自路線をとった結果必然的に招いた国際的孤立から国内経済の成長が阻害されたため、1968年5月、パリの学生と労働者の反抗(5月革命)を招いた。この危機は乗り切ったものの、翌1969年には、彼が国民投票に付した上院と地方行政制度の改革案が国民の拒否にあって、辞職を余儀なくされた。この改革案は議会で通すことは不可能でなかったにもかかわらず、彼が側近達の反対を押し切って敢えて国民投票を行った真意は明らかではない。
引退後
辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・セグリーズに住居を移し執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で没した。
遺書には、「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように。」と記されていたが、結局国葬が執り行われた。墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・セグリーズにある。
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