England, Churchill; チャーチル
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年譜
1904年、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。1906年の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。
第一次世界大戦期
1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。しかし、敵国となったオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブルの入り口であるダーダネルス海峡制圧をねらって彼が推進したガリポリの戦い(1915年)はイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判された彼は内閣を去らねばならなかった。
1917年、チャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰した。チャーチルは戦争推進のために意欲的に働き、1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。1921年、彼は植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。
1922年には落選して政権を去ったが、この間、反社会主義の立場を鮮明にして保守党に再接近した。1924年の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。
1929年、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。この政治的に不遇な間、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆など、著作活動に専念した。
第二次世界大戦期
ヤルタ会談
1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海軍相に就任した。1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の後任として首相に任命され、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。
チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していきバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなど強力な指導力を見せることになる。戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談、ポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年の春におこなわれた総選挙で保守党は敗北し、チャーチルは政権を退いた。
冷戦期
その後、トルーマン大統領の招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、1946年3月5日にミズーリ州で行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン」演説を行い、アメリカ・ソビエトを軸にした冷戦の到来を予言した。
1951年の総選挙で保守党が勝利すると、チャーチルは再び首相に就任したが、二度目の政権は国際問題に悩まされ、大英帝国の衰退を告げる下り坂の時代に終始した。
まず選挙の年にはイランでモハンマド・モサデク首相がイギリス系の石油会社アングロ・イラニアン石油の国有化を宣言し、イランの石油権益が失われた。植民地ケニアではキクユ人による抵抗運動から1952年に非常事態宣言が発令され、マウマウ戦争に発展し、イギリスは植民地政策の転換を迫られた。マレーシアでも独立の機運が高まって反英ゲリラの闘争が頻発し、近い将来にマレーシアが独立することを承認せざるを得なくなった。
1955年、チャーチルは首相職をアンソニー・イーデンに譲り、引退した。1963年にはアメリカから名誉市民権を贈られたが、チャーチルはその頃には病気で式典に出ることができなかった。1965年1月24日、チャーチルは病没し、平民のためとしては史上初となる国葬によって葬られた。
寸評
チャーチルは第二次世界大戦時の指導者として、非常に国民から敬愛されていた政治家であった。ビートルズなどで活躍したジョン・レノンのミドルネーム「ウィンストン」は、チャーチルのファーストネームを取ったものである。
彼は優れた演説家であり、「鉄のカーテン」演説をはじめ多くの名言でも知られる。一方で、チャーチルの発言としてまことしやかに巷間伝わるものの中には全くのでっち上げもある。その例としては「25歳のときリベラルでない者は情熱が足りない。35歳のとき保守主義者でない者は知恵が足りない」(エディンバラ大学のポール・アディソンによると、チャーチル自身は15歳のとき保守主義者で、35歳のときリベラルだった)や、「一国の宰相となるよりも、ダービー馬のオーナーになる方が困難である」などがある。しかしながら、こうした言葉の発言者として名前が出ること自体、彼の演説家としての評価の高さを裏付けるものであると言える。
チャーチルは目的の為には手段を問わない現実主義者として有名である。例えば趣味の絵画においても、デッサンの代わりに写真を下書きに使ったという逸話が残っている。
また、チャーチルは文才に優れ、『第二次世界大戦回顧録』などの著作活動でも評価を受けた。2度目の首相在任中の1953年には、ノーベル文学賞を受賞している。
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